田丸神父のブログ 聖書エッセイ

田丸神父の聖書エッセイです。

クリスマスの喜び

羊飼いを導く星

私は子供たちとクリスマスの準備をするとき、クリスマスは神の独り子である主イエスが誕生されたことをお祝いする日だけど、イエス様は何時頃お生まれになったのかなと聞くことがあります。子供たちは皆真夜中の12時頃とか明け方早くと答えます。そして誰も昼の12時頃とか午後3時頃と答える子はいません。皆イエス様がお生まれになったのは夜だった、真夜中だったと感じています。どうしてそれがわかるのでしょうか。それは星です。星が出ていたから、闇の中で星が一段と輝いていたからです。聖書の中のヨハネ福音書の初めには「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と書かれています。私たちの中にある闇をその光で照らすために神の独り子は人となって私たちのもとを訪れてくださった、それがクリスマスの意味です。

 

私たちが生活しているこの社会の現実は、不正や争い、戦争が絶えません。これは聖書の時代から現在に至るまで共通した現実です。そしてこれらの根をたどっていけば、やはり一人ひとりの自己中心的な思いに行きつきます。大切な人、また家族なのに傷つける言葉しか出てこない。止めたいのに悪い習慣を止められない。これがわたしたちの現実です。この分かっていても抜け出すことができない私たちの現実を変えていくためには、それを正す言葉だけでは足りません。その弱さが受け止められ、あたたかく支えられることが必要です。クリスマス、神の子であるキリストの誕生が意味することは、私たちに正しさを求めるだけの神のイメージを越えて、へりくだり、ゆるしに満ち、私たちと同じ姿で私たちの中に神が来てくださった、そのことを意味します。

 

そのことを一番身をもって感じたのは最初にその誕生の場所を訪れた羊飼いたちだったと思います。貧しく蔑まれながらも寄り添いあいながら生活していた羊飼いたちは、馬小屋の飼い葉桶に寝かされた幼子を訪ね、「神をあがめ、賛美しながら帰って」いきました。この羊飼いたちの喜びはどういう喜びだったのでしょうか。それは救い主がこんなに近くに自分たちと同じように貧しく無力な姿で来てくださったという喜びです。自分たちは神から見放されているのではない。神はこんなに小さく貧しいかたちでこんなに近くに来てくださった。これが本当のクリスマスの喜びです。私たちも羊飼いたちと同じようにクリスマスの本当の喜びを味わうことができるように共に祈りたいと思います。

 

父である神よ、今日私たちは真の光である主の誕生を共に祝い祈るために集まります。どうか闇の中を歩んでいる私たちをまことの光で照らしてください。神の私たちへの無償の愛を知り、真のいのちを生きる力を見出すことができますように。

クリスマスメッセージ

幼稚園時代の聖劇(宿屋の主人)

私はクリスマスには何か不思議な力が働いているように感じます。戦争している国同士でも、クリスマスの日は戦争をするのをやめよう、クリスマスの日まで戦い続けるのはあまりに悲しすぎると感じます。クリスマスの日は、本当に人間に大切なもの、それを思い出し、それを大切にする日にするように招かれているように思います。クリスマスの晩、病院で過ごす人もいるでしょう。仕事の中で迎える人もいるでしょう。でもどんな場であっても、皆が人として一番大切なこと、それを思い出し、大切にし合う晩にしたいと思います。そのような心を持つことが一番のクリスマス、主の御降誕の祝いになります。今年1年、いろんな出来事がありました。今晩私たちも、少し自分の周りで起こった出来事を振り返って、本当に皆が手を取り合って、互いがやさしい心をもって歩んでいけるように、そのような世の中にしていくことができるように共に祈りたいと思います。

ヨセフ様へのお告げ

ヨセフ様への夢でのお告げ

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」

1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

(マタイ1:18-20,24)

神様は救いの働きをなさろうとするとき、必ず人間の応答、人間の協力を求められます。イエス様がこの世に誕生されるにあたって神様が協力を求められたのは、マリア様とヨセフ様でした。マリア様と同様、ヨセフ様も神様がなさろうとされていることについて、すべてを理解していたわけではなかったと思います。そのヨセフ様に主の天使が夢に現れて「恐れずに妻マリアを迎えいれなさい。」と語ります。人間の知恵や思いを超えて、神様が救いの業をなさろうとしている。そして私たち人間に、完全な理解以上に、信じること、そしてその救いの業に協力することを求めておられる。ヨセフ様は、聖書の中で決して目立つ存在として描かれていません。静かに、しかし力強くイエス様とマリア様を守ります。マリア様もヨセフ様の存在があったから、ご自分の大きな使命を果たすことができたでしょう。目立つとかが大事なのではない。それよりも、淡々と静かに、そして自分に求められていることを果たしていく。そのようなヨセフ様の協力によって、神様の救いの業が進められます。

わたしは主のはしためです

マリア様とイエス

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ138)

マリア様は天使からお告げを受けられた時、それが何を意味するか正直よくわからなかったでしょう。ただ神様が自分にそうお望みになられるのであれば、自分としてできることは「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」とお答えすることでした。神様が望まれるのであれば、私ができることはそうなるように自分を差し出すという態度。私たちの生活の中にも似たようなケースはたくさんあると思います。こうすることによってこの先どうなるか自分でもわからない。しかし神様はそれでも御自分の言葉に従って、そして御自分の導きを信じて歩んできてくれる人を求めておられる。大切なことは、どうなるかわからなくても神の導きを信じて歩む。自分としてできる精一杯のことを捧げることだと思います。

マリア様の生涯は聖書に目を通せばわかるように、決して平穏無事に終わるものではありませんでした。はじめから最後までなぜこのようなことが起こるのかそう思わざるをえないその連続でした。救い主であるイエス様が馬小屋で生まれた後もヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れねばならなかったこと。30年近くナザレでお過ごしになったこと。公生活の後、十字架の苦しみと死を受けられたこと。なぜそのようなことが起こらねばならなかったのか。一つだけ言えることは神がそうなさったということ。そしてその一つひとつが私たちの救いのために神が選ばれたことだったということです。その神の救いの業に一番近くによりそって困難の中にも従われたのがマリア様でした。マリア様は私たちが信仰者としてどう歩むかを示す模範です。

マリア様への天使のお告げ

マリア様への天使のお告げ

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ126-28)

天使はマリア様に「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言います。マリア様はお告げを受けられた時、それが何を意味するか正直よくわからなかったと思います。これから自分の身に何が起こるのだろう。そして自分はどうなるのだろう。それが正直なマリア様の心だったでしょう。しかし、神様を誰よりも大切にされていたマリア様がなさった返事は、神様が自分にお望みになられるのであれば、自分がそれを全て理解したとか、納得したからではなく、神様の望み、お考えのままに事が運ばれますようにというものでした。神様が望まれるのであれば、私ができることはそうなるように自分を差し出していく態度。私たちの生活の中にも似たようなケースはあると思います。こうすることによってこの先どうなるか自分でもわからない。今日そして明日どうなるか。しかし神様はそれでも御自分の言葉に従って、そして御自分の導きを信じて歩んできてくれる人を求めておられる。大切なことは、どうなるかわからなくても神様の導きを信じて歩む。神様の言葉に従って歩む。そして自分としてできる精一杯のことを捧げることです。一日を終える時、自分で自分の一日を振り返り、今日一日自分として精一杯歩めたと思えることが神様の目にも尊く写るのだと思います。

天使と羊飼い

天使と羊飼い

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2・8-11)

主の降誕、クリスマスの出来事は、静かな星の輝く晩に起こった出来事です。皆が寝静まっている中、目立たず、静かに神の独り子はお生まれになります。神は独り子をこの世に誕生させられるとき、目立つ方法を望まれませんでした。目立たない、でも静けさと沈黙の中で、神のあたたかい救いの業は始められます。静かに、密かにこの世に誕生された救い主の誕生を天使たちが最初に告げたのは羊飼いたちでした。危険や厳しい環境の中で、素朴にそして皆で寄り添って生活している羊飼いたちに「恐れることのない民全体に与えられる大きな喜び」が告げられます。そして羊飼いたちは、天使の言葉に従い、星の導きに従って馬小屋を訪ねます。羊飼いたちはそこを訪ねた人、近づいた人にしかわからない本当の光とその幼子の持つぬくもりを感じたのではないでしょうか。

神はご自分の独り子をこの世を照らす真の光として私たちのもとに送ることを決意されます。私たちが立派だからとかうまくいっているからではなく、光を失い、闇の中をただよい倒れている私たちだからこそ、ご自分の子を光として送ってくださったのです。私たちに大切なことは、静かに見つめることだと思います。自分の弱さも足りなさもそして自分が抱えている闇も。同時にイエス様がそのような私たちだからこそ、もたらそうとしてくださるあたたかな光を。クリスマスの出来事は2千年前だけではなく、今も私たちの心の中に起こっている出来事であることを思いたいです。

自分の方から動いて

星を仰ぐ博士たち

どうしたら、私たちがもっと神様の心、呼びかけ、うながしを感じ取ることができるでしょうか。そして神様が共にいてくださるそのいつくしみとあたたかさを感じ取っていくために何が大事でしょうか。それは、私たち一人ひとりに問いかけられています。そしてその答えはきっと私たちが受け身の態度でいては与えられないのだと思います。自分の方から動いて、近づいて、心を向けて初めてわかるものなのだと思います。主の降誕の場面でも、羊飼いたちは天使の呼びかけに応えて、イエス様が誕生された場所を訪ねて行きました。東方の3人の博士たちも、遠い東の国から光輝く星を手掛かりに長い旅を続けてその場所を探しあてました。じっと待って何もしない生き方から自分も一歩、自分の枠から抜け出て進み出してみる。そのような動きや歩みの中に、きっと神様が共にいてくださることを感じ取る鍵が隠されているのだと思います。どんなに現実が正義から離れ、苦難に満ちていても、神様は必ずその中にあって働き続け、御自分に心を向けることを待ち続けておられます。そのいつくしみに包まれ、自分も神様の呼びかけに応えて歩むことを祈り願いたいです。