田丸神父のブログ 聖書エッセイ

田丸神父の聖書エッセイです。

イエス様は「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

17:14 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、17:15 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。17:16 お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」17:17 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」17:18 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。17:19 弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。17:20 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ1714-20)

 

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」イエス様のもどかしい思いが伝わってきます。

 

イエス様はなぜこのような思いを表されたのでしょうか。弟子たちの「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。」という問いに対して、イエス様は「信仰が薄いからだ。」と答えられます。

 

イエス様が弟子たちに、そして現代を生きる私たちに求めておられるのは信仰です。そしてその信仰とは、イエス様を心から受けとめ、イエス様の力を信じ委ねる態度のことです。

 

私たち人間は人を救う力を持ちません。でも、私たちが心からイエス様を信じ、イエス様に心を向け委ねていくなら、私たちには人を救うことができなくても、イエス様が私たちの信仰に応えて人を救ってくださいます。

 

私たちに必要なのは、このイエス様に対する心からの信頼、そしてイエス様のおっしゃることに応えていく柔軟な心と行いです。

 

イエス様から「信仰が薄い。」と言われるのでなく、「あなたの信仰は立派だ。」と言っていただけるような信仰を持って歩みたいです。

イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マタイ1624-28)

 

イエス様がこの世に来てくださったのは、ただ私たちに慰めといやしを与えるためではなかったと思います。

 

イエス様は御自分の父のもとに私たちを導きたい。そのために必要な生き方を示してくださるために私たちのもとに来てくださったのです。

 

イエス様が教えてくださった私たちの歩むべき生き方、それは今日私たちが聞いたイエス様の言葉「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」に表されています。

 

イエス様が教えてくださった私たちの生き方は、すべてこのことの中にあります。

 

私たちはいつのまにか、自分が第一になってしまって、自分の思いがかなうことを優先しています。これがこうなったらよい、あれがこうなったらよいと私たちは自分の思いを第一にしています。

 

でも、私たちはイエス様のことば、呼びかけに心を開いて素直な心で聞き従うことが大事です。

 

イエス様が、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とおっしゃるのなら、自分にとって背負うべき十字架は何だろうか。神様は何を私に背負ってイエス様の後に従うように望んでおられるのか。それを大事に見つめてみることです。

 

一人ひとりその背負う十字架は異なるでしょう。そして人と比べるものでもないと思います。

 

神様がこの私に必要だと思っておられること、自分を捨てて、背負うように求めておられること、それは一人ひとりに必要で意味のある十字架なのです。

 

今日このイエス様の言葉を聞いた私たちが、どう自分の十字架を背負ってイエス様の後についていったらよいか。そして自分に死ぬことがかえって真の命を生きることになることも忘れないようにしたいです。

 

イエス様は「起きなさい。恐れることはない。」と言われました。

主の変容

17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ171-9)

 

現代世界は、日本をはじめ多くの人々が信仰から離れていっています。若者は教会を訪れず、教会の中心をなしていた高齢者の数も減少しています。それはどうしてでしょうか。時代が変わり、人々が求めているもの、生活のあり方が変わってしまったことも原因の一つでしょう。同時にイエス様の存在、姿、思いが人々に届きにくくなってしまっていることもあります。もっとイエス様の姿が私たちにとって身近になり、一人ひとりがイエス様を親しく感じ、イエス様を大切にするようになるために、私たちはどんなことを大事にしたらよいでしょうか。そのことをよく見つめなければと思います。

 

今日の福音の箇所はイエス様の姿が弟子たちの前で光輝く姿に変えられた出来事、主の変容の場面です。この主の変容の出来事は2千年近く前に、弟子たちの前で起こった出来事です。そしてもしイエス様が現代の私たちにも同じように光輝く姿を見せてくださったら、私たちはどういう態度を取るでしょうか。光輝くイエス様の姿に圧倒されて、言葉を失ってしまうでしょうか。それとも私たちが信じているイエス様を目の前にして喜びと感動に包まれるでしょうか。

 

イエス様はこの変容の場面の前に弟子たちに自分がこれから担うことになる受難について話されています。しかし、弟子たちはそのことの意味が本当の意味で理解できませんでした。そんな弟子たちが、イエス様がこれから担われること、その姿に恐れをなしてしまわないように、そしてイエス様の受難と苦しみを見て自分たちの希望を失ってしまわないように、そのためにイエス様は弟子たちを連れて山に登られ、御自分の栄光に輝く姿、真の姿をお示しになったのだと思います。

 

イエス様は主の変容の出来事を通して、私たちにも受難、苦しみがあることを恐れてはならないこと、神様が望まれる生き方には十字架の苦しみが伴うこと、でもその十字架の苦しみを担う生き方が必ず光輝く復活の栄光の姿に変えられることを教えてくださっています。

 

私たちはまだ十分に神様がなさったことの意味を理解しきれていないかもしれません。そして今でも神様を忘れて自分中心の思いで生きてしまっています。それでも天の父である神様は今でも私たちのためにイエス様のいのちを与え続けてくださっています。私たちの信仰は、イエス様が十字架の苦しみを捧げながら私たちに愛を示してくださったこと、私たちに生きる道を教えてくださったこと、愛を生きるがゆえに求められる苦しみと十字架は、必ず復活の栄光に変えられること、それを一人ひとりが自分のものとして心に刻んで歩むことを心に留め生きる信仰です。

 

天の父である神様は弟子たちに「これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者。これに聞け」と告げられます。弟子たちが、そして私たちが聞くべき方はイエス様です。私たちも日々過ごす日常生活の中で、もっとイエス様を大切にし、そのために自分が捧げることができることを大事にしていきたいです。そしてその生き方が決して無駄に終わらず、真の喜びに包まれることを信じて歩んでいきたいです。

イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ1521-28)

 

今日の福音のカナンの女性は異邦人でありながら、イエス様を「主よ、ダビデの子よ」と呼び、イエス様が神の子であることを認め悪霊に苦しめられる自分の娘を助けてくださいと切実に訴えます。

 

しかしイエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」と、言われます。

 

神様の愛やイエス様のやさしさに慣れ、それを当然と思っている私たちには、こうしたイエス様の言葉は理解に苦しみます。

 

そしてこのイエス様の言葉は、当事者であるこのカナンの女性にとっては試練以上のものだったでしょう。しかし、ここからが大切なところですが、このカナンの女性は決して引き下がろうとはしませんでした。確かに自分は子犬のような存在かもしれない。でも子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです、とまではっきりと言い切ります。一度断られたくらいで簡単に引き下がりはしない。信じてまっすぐにイエス様に訴え続けます。

 

イエス様はここに本物の信仰を見出されて「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」と言われます。

 

イエス様が立派だと言われる信仰、それはどんな信仰でしょうか。

 

イエス様が人々に求めておられる信仰とは、まず御自分にまっすぐ心を向けてほしいということでしょう。一人ひとりが自分の中にイエス様を受けとめてほしい。イエス様、あなたは神の子です。この私にはあなたしかないのです。この思いこそイエス様が私たちに求められる信仰でしょう。

 

自分の中にイエス様の存在をどう位置づけていくか、そしてどのようにイエス様に近づいていったらよいか、それが今日の福音を通して問われています。

 

私たちもこのカナンの女性のようにイエス様から「あなたの信仰は立派だ」と言われる者になれるように励みたいです。

 

イエス様は「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。15:13 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。15:14 そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイ15,1-210-14

 

イエス様は言われます。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

 

人々は、清めのおきてを大事に守り、食事の前に手を洗っていました。イエス様は清めそのものを否定されたのではなく、本当に清めるべきものは、手や食べ物ではなく、私たち自身の心の中であると言われたということです。

 

イエス様はすべてにおいて本質、真理を示されました。イエス様は本当に大切な事をまっすぐ話されます。

 

私たちは、もっとイエス様の言葉に耳を傾けなければなりません。私たちの思いや考えを第一にするのではなく、イエス様の言葉を第一にすることを祈り願いたいです。

 

イエス様が言われることを心にとめて聞き従うことが、私たちを本当に自由にし、喜びを味わうことになります。私たちを真のいのちに道案内してくださる方はイエス様です。もう一度そのことを心に深く刻みたいです。

イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。14:34 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。14:35 土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、14:36 その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。(マタイ1422-36)

 

今日の福音の場面で印象的なイエス様の姿が描かれています。一つは湖の上を歩かれる姿、一つはイエス様が舟に乗りこまれると風が静かになったこと、そして最後はイエス様の服の裾に触れた者は皆いやされたこと。これらはみな、イエス様の真の姿を表している姿です。

 

湖の上を歩かれるのも、風を静められるのも、病気をいやすことがおできになるのも、それらのできごとを通してイエス様の真の姿が表されているということです。

 

そのイエス様が私たち人間に求められることは、イエス様を信じることです。イエス様の姿をただの方としてではなく、力ある神の子として受けとめ信じることです。

 

私たちが自分にとって都合がよいことだけを求めてイエス様に近づくのではなく、イエス様の真の姿に目を向け、イエス様を受けとめ、そしてイエス様が求められる真の信仰をもって歩むことです。

 

今、私たちはイエス様の姿がどのような方として、映っているでしょうか。一人ひとり、自分とイエス様が今どのようにつながっているか見つめて、イエス様としっかりつながって歩んでいきたいと願います。

 

そのようなイエス様を求める私たちにイエス様は弟子たちと同じように「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という言葉をかけてくださるでしょう。

 

そして私の呼びかけに応えて歩むようにと励ましてくださるでしょう。私たちの心がイエス様を思う思いでいっぱいになれることを願います。

イエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた花

14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイ1413-21)

 

今日私たちが聞いた福音は、イエス様が5つのパンと2匹の魚を用いて5千人の人々を満腹させられたというものです。私たちは普通この出来事を耳にすると、そんなことあるはずがないとか、イエス様は神の子である方だから、その気になればそういうこともおできになるだろう、そんな感じを覚えます。

 

でもイエス様がこの出来事を通して私たちに伝えたいものがあるとしたら、それはただイエス様が神の子だから奇跡を行なうことができるということではないと思います。ある人たちはイエス様のなさったことを奇跡としてとらえることをしないで、この場面も実際には人々がそれぞれ持っていた食べ物を皆が出し合ったら十分皆が食べて満腹するだけの食べ物があったのだとみる人たちもいます。

 

でも実際はどうだったのでしょうか。イエス様も弟子たちもここが人里離れた所でこのまま夕暮れになってしまったら、皆食べ物のことで困ることになることは十分わかっていたと思います。実際に弟子たちはイエス様に言います。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 

でもイエス様の答えはそうではありませんでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちからすればそれは到底無理な提案です。実際にここには5つのパンと2匹の魚しかなく、それだけではとても人々に食べ物を与えることはできないからです。しかしイエス様はあえてそれを断言されます。イエス様はこの出来事を通じて何か特別に大事なことを弟子たちに教えようとされたのだと思います。

 

弟子たちにとってこのような困難な状況の中においては、成すすべがありません。群衆を解散させてそれぞれが村で食べ物を買いに行くという常識的なことしか考えることができません。弟子たちは自分たちが置かれている状況に対して何もできないのです。

 

でもイエス様はまずそのことを弟子たちにお教えになられたかったのだと思います。弟子たちが人々の救いに対して力を持ち合わせていないこと。それをまずしっかり自覚すること。同時にそれで終わらず、ここは人間の常識では何も行うことはできないけれども、ここにはイエス様がおられる。イエス様が何をなさるか、どんな力を示されるか想像もできない。しかしそのイエス様を信じてみる。この姿勢はとても重要です。

 

人間的な経験や知恵だけで判断せず、イエス様のなさり方を信じる。この態度は私たちにも求められるのだと思います。人間的に見て絶望する状況にあっても、イエス様がおられることに心を向ける。大事なことは人間の力の限界を認め、困難な状況にあってもイエス様に心を向けていくこと。同時にイエス様に委ねて自分たちは何もしないというのではなく、弟子たちがわずかであっても自分たちが集めることができるものを集めてイエス様にお渡ししたように、私たちも自分たちができることはすべて行ってイエス様に差し出していくことです。

 

イエス様の持っておられる真の力、そして私たちのために今も働いてくださっているその働き。どれも私たちが手に取るようにつかむことができるものではないでしょう。時にイエス様はどこに働いてくださっておられるのだろう。どうしてこんなに苦しい出来事が続くのだろう、そのような思いが私たちの心を支配しているかもしれません。

 

それでもイエス様が私たちに求めておられるのは、このイエス様に対する大きな信頼です。同時に小さな自分たちの働きを惜しまずイエス様に向かって差し出していくことです。そしてイエス様にしっかりつながっているなら、きっとよい方向へ向かっていくことができることを信じることです。私たちの人生の歩みは、そのことを自分の生きる堅固な土台としていくということだと思います。

 

私たちは明日のことでさえ予想することができません。明日、どんな出来事を自分たちは経験することになるのだろう。でもそれを今わからなくても、祈りをもってイエス様とつながり、自分としてもできることを精一杯行っていくなら、必ず光が与えられる。そのような実感を自分のものにしていくことです。

 

今こそ、私たちは自分に与えられた人生をどのように用いようとしているのか、どこに生活の中心を置いているのか省みるよい時かもしれません。

 

私たちが、自分の生活の核となるものとしてイエス様をしっかり自分の中に置きたいと思います。そしてそうすることで、人間の思いや想像を越えて働かれるイエス様の力を感じたいです。そして自ずといつも神様に賛美と感謝を捧げられるようになりたいです。