田丸神父のブログ 聖書エッセイ

田丸神父の聖書エッセイです。

イエス様は「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われました。

司祭館の庭に咲いた花

14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイ1413-21)

 

今日私たちが聞いた福音は、イエス様が5つのパンと2匹の魚を用いて5千人の人々を満腹させられたというものです。私たちは普通この出来事を耳にすると、そんなことあるはずがないとか、イエス様は神の子である方だから、その気になればそういうこともおできになるだろう、そんな感じを覚えます。

 

でもイエス様がこの出来事を通して私たちに伝えたいものがあるとしたら、それはただイエス様が神の子だから奇跡を行なうことができるということではないと思います。ある人たちはイエス様のなさったことを奇跡としてとらえることをしないで、この場面も実際には人々がそれぞれ持っていた食べ物を皆が出し合ったら十分皆が食べて満腹するだけの食べ物があったのだとみる人たちもいます。

 

でも実際はどうだったのでしょうか。イエス様も弟子たちもここが人里離れた所でこのまま夕暮れになってしまったら、皆食べ物のことで困ることになることは十分わかっていたと思います。実際に弟子たちはイエス様に言います。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

 

でもイエス様の答えはそうではありませんでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。弟子たちからすればそれは到底無理な提案です。実際にここには5つのパンと2匹の魚しかなく、それだけではとても人々に食べ物を与えることはできないからです。しかしイエス様はあえてそれを断言されます。イエス様はこの出来事を通じて何か特別に大事なことを弟子たちに教えようとされたのだと思います。

 

弟子たちにとってこのような困難な状況の中においては、成すすべがありません。群衆を解散させてそれぞれが村で食べ物を買いに行くという常識的なことしか考えることができません。弟子たちは自分たちが置かれている状況に対して何もできないのです。

 

でもイエス様はまずそのことを弟子たちにお教えになられたかったのだと思います。弟子たちが人々の救いに対して力を持ち合わせていないこと。それをまずしっかり自覚すること。同時にそれで終わらず、ここは人間の常識では何も行うことはできないけれども、ここにはイエス様がおられる。イエス様が何をなさるか、どんな力を示されるか想像もできない。しかしそのイエス様を信じてみる。この姿勢はとても重要です。

 

人間的な経験や知恵だけで判断せず、イエス様のなさり方を信じる。この態度は私たちにも求められるのだと思います。人間的に見て絶望する状況にあっても、イエス様がおられることに心を向ける。大事なことは人間の力の限界を認め、困難な状況にあってもイエス様に心を向けていくこと。同時にイエス様に委ねて自分たちは何もしないというのではなく、弟子たちがわずかであっても自分たちが集めることができるものを集めてイエス様にお渡ししたように、私たちも自分たちができることはすべて行ってイエス様に差し出していくことです。

 

イエス様の持っておられる真の力、そして私たちのために今も働いてくださっているその働き。どれも私たちが手に取るようにつかむことができるものではないでしょう。時にイエス様はどこに働いてくださっておられるのだろう。どうしてこんなに苦しい出来事が続くのだろう、そのような思いが私たちの心を支配しているかもしれません。

 

それでもイエス様が私たちに求めておられるのは、このイエス様に対する大きな信頼です。同時に小さな自分たちの働きを惜しまずイエス様に向かって差し出していくことです。そしてイエス様にしっかりつながっているなら、きっとよい方向へ向かっていくことができることを信じることです。私たちの人生の歩みは、そのことを自分の生きる堅固な土台としていくということだと思います。

 

私たちは明日のことでさえ予想することができません。明日、どんな出来事を自分たちは経験することになるのだろう。でもそれを今わからなくても、祈りをもってイエス様とつながり、自分としてもできることを精一杯行っていくなら、必ず光が与えられる。そのような実感を自分のものにしていくことです。

 

今こそ、私たちは自分に与えられた人生をどのように用いようとしているのか、どこに生活の中心を置いているのか省みるよい時かもしれません。

 

私たちが、自分の生活の核となるものとしてイエス様をしっかり自分の中に置きたいと思います。そしてそうすることで、人間の思いや想像を越えて働かれるイエス様の力を感じたいです。そして自ずといつも神様に賛美と感謝を捧げられるようになりたいです。

ヘロデは「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」と言いました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、14:2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」14:3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。14:4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。14:5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。14:6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。14:7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。14:8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。14:9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。14:12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。(マタイ141-12)

 

今日の福音ではいわゆる「洗礼者ヨハネの殉教」のエピソードが描かれています。ヨハネはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか。

 

それは領主ヘロデという絶対的な権力者にも臆することなく、「あなたのしていることはおかしい、律法では許されていないはずだ。」とはっきりと述べたからに他なりません。

 

対照的なのがヘロデです。「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。」とあります。しかし、妻ヘロディアの娘の願いに対して「心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ」とあります。そして結果的にヨハネの首をはねさせるということになってしまったわけです。

 

ヘロデは、誓ったことではあるしという父としての面子と、客の手前という世間の目を気にするという態度が、洗礼者ヨハネを惨殺するという行為に及ばせてしまいました。

 

面子と世間の目を気にする心の中には、神様を思う心の態度は入る余地がなかったということでしょう。

 

私たちも日々の生活を送る中で、自分の心の中に神様を思う心の場所を持っていないなら、似たようなことをしてしまう危険は大いにあると思います。

 

私たちにとって大事なことは、日々の生活の中で神様に心を向け、神様の心に触れて自分の行動や態度を決めていくことだと思います。

 

ヘロデによって首をはねられた洗礼者ヨハネは、神様につながってまっすぐに生涯を歩みました。私たちもその態度と強さを身につけて歩みたいです。

イエス様は、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われました。

司祭館の庭に咲いた朝顔

13:54 イエスは故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ1354-58)

 

「人々はイエスにつまずいた。」どうして人々はイエス様につまずいたのでしょうか。それは、自分の思い、判断、考えが一番にあって、その自分の捉え方の枠の中ですべてを理解しようとしたからだと思います。

 

自分の理解が一番正しいという思い。しかし私たち人間が神様のお姿を完全なかたちで理解することはできません。神様は人間の頭や考え方の枠組みの中に納まるような小さな存在ではありません。

 

神様の存在は人間の理解、思い、またこの世の営みをはるかに超えるほど大きなもの、同時にそれだけ大きな存在でありながら、目立たず、小さきものとなって、私たちの歩みを支えてくださっている存在。そのように言うことができると思います。それでもそれも神様のお姿のほんの一部を示しているにすぎないでしょう。

 

神様を私たちが考える小さな限られた枠組みの中に閉じ込めてしまってはいけないということ。逆に私たちの想像を超えて、慈しみ深く、忍耐強く、あわれみに満ちた心で私たちにまなざしを注ぎ続けてくださっていること。私たちに求められていることは、私たちももっと謙虚になり、同時に私たちの想像を超えた神様の慈しみの深さをもっと感じられるように願っていくことだと思います。

 

神様の姿につまずくのではなく、また自分の捉え方が一番正しいと思うのでもなく、神様が、私たちが知らないかたちでいつも働いてくださり、慈しみに満ちた思いを送り続けてくださっていることを素直に信じたいと思います。

 

素直に信じる心、謙虚な姿勢で神様の働きのありがたさを思う心、そのような心を持っていつも神様に向かいたいと思います。

 

イエス様は「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。」と言われました。

修道院の庭に咲いた花

13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去った。(マタイ1347-53)

 

イエス様は度々「世の終わり」についてたとえで話されています。「網が湖に投げおろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」

 

私たちはこのイエス様が話された言葉をどう受けとめたらよいでしょうか。まだ世の終わりではない現代は、良いものと悪いものとが混在している状態です。そのため神様の思いに反する悪がはびこっています。

 

しかし世の終わりの時、天の父はこの世にはびこった悪とそれに連なる者すべてを投げ捨て、燃え盛る炉の中に投げ込まれます。

 

悪は永遠の命には与れません。このような神様のなさり方を私たちも受けとめ、今、悪の働きによって様々な困難を味わっているとしても、神様が必ず正しい裁きをしてくださることを信じて歩むことです。

 

大事な事はいつもイエス様に心を向け、イエス様につながって、イエス様が喜んでくださることを行って歩むことです。

 

イエス様は結びとして「だから天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」と言われます。

 

天の国のことを学んだ学者とは、人間の思いではなく神様が望まれることをしっかり受けとめることができた人々を表すでしょう。そして「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」とあるように、神様の思いに適うものと敵わないものを見極め、神様の思いに適うものを取り出して大切にすることが示されます。

 

私たちも同じ行動を取って歩みたいと願います。

イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われました。

修道院の庭に咲いた花

11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ1119-27)

 

イエス様は力ある業をなさいます。それは病気のいやしであったり、悪霊の追放であったり。そのイエス様がなさった力ある業の中でラザロの復活ほど人々を驚かせたものはなかったでしょう。一度いのちを失った者が、もう一度息を吹き返すこと。

 

人間がどんなに力を尽くしても乗り越えることができない、肉体の死。でも、イエス様はそれを乗り越える力ある業をなさいました。

 

そしてその業は、単に悲しむマルタとマリアという姉妹を慰めるということ以上に、御自分がすべての人を招きたい死を越えたいのちの世界があることをお示しになるということも意味していたでしょう。

 

救い主の使命、それは人間をこの世の死に縛られた状態から真のいのちへ移していく使命であること。そのために神の子は人となって、私たち人間の中に入ってくださったということ。

 

天の父は私たちを真のいのちへと招いておられます。そしてその業を行うために神の子であるイエス様をこの世にお遣わしになりました。イエス様は御父の意向に従い人類に真のいのちへの道を示し、御自分につながる必要を説かれました。

 

イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」そして「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われます。私たちが信じるとしたら何を信じるのでしょうか。そして何を信じたらよいのでしょうか。

 

私たちが信じるとしたら、私たちに語りかけてくださっている方が誰であるのか。そしてその方が示してくださる死からいのちへ移るとはどういうことなのか。そして復活があるとはどういうことなのか。私たちはそれを信じるのだと思います。

 

そして、信じてイエス様が示してくださる道を、イエス様の後に従って、イエス様につながって生涯その道を歩むということだと思います。

イエス様は「刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」と言われました。

修道院の庭に咲いた花

13:36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。13:37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、13:38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。13:41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、13:42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。13:43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ1336-43)

 

神様が刈り入れの働きをなさるのは世の終わりの「収穫の時」です。それは今ではありません。今は神様が毒麦の存在と働きを忍耐される時です。

 

しかし収穫の時、すなわちこの世の完成の時が来たら、毒麦は集められ、火で焼かれます。つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもは集められ、燃え盛る炉の中に投げ込まれます。世の終わりの時、神様の思いと相容れないものは、神様と共に存在し続けることはできません。

 

このようなイエス様を通して示された天の父の思いを私たちはもっと大事に心に留めるべきです。この世でどのような生き方をしても最後は皆同じではないのです。神様はやはり正義の裁きを行われるのだと思います。

 

大事なことは私たちが神様の思い、意志を見出してそこにつながった生活をしていくことです。そしてそれは自分にできるかたちで日々を感謝の心で過ごし、自分ができる愛を表していくことです。

 

私たちが毎日のその生活を積み重ねることで滅びではなく永遠の命の喜びに与ることができることを信じます。

イエス様は「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」と言われました。

からし種のたとえ

13:31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、13:32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」13:33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(マタイ1331-35)

 

イエス様が話された、からし種やパン種のたとえは、神の国は初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものに成長することを表しています。

 

からし種とパン種、どちらもとても小さなものです。でもそのパン種や、からし種が全体に対して大きな働きをしていきます。私たちキリスト者も同じです。パン種の働きをするように神様から委ねられたということです。

 

多くの人は、自分の救いのためにという理由で洗礼を受けたかもしれません。しかしそのような洗礼でも神様は生かし、パン種となるように招かれます。そして辛抱強く待たれます。小さく目立たなくても、大きな影響を及ぼすことができるということです。

 

からし種やパン種自体が大きくなるのではなく、パン種によって全体がふくらみ大きくなっていくのと同じように、今は小さく見える教会やイエス様を信じる人々の集いが必ず成長していくことが約束されています。

 

神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエス様は、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神様への信頼を求めておられるのだと思います。

 

今は小さく、ちっぽけにしか見えないものが必ず大きく成長していく。それが神様のなさり方であることを改めて大事に心にとめたいです。

 

神の救いは小さな種から始まります。そしてこの世の終わりの時、神の力によって全世界の人々に及ぶということです。その時のことを心配する必要はないのです。それより今、いかに自分がパン種、からし種として小さくてもよい影響を与えることができるように努めるということだと思います。